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第7話 新しい仕事・2

真剣な声音で言われた言葉に千早は声を詰まらせて、瞳を揺らした。 「まさか……そのために?」 それでは誘拐ではなくて、保護ではないか。どうしてそこまでするのか。 分からずに、混乱した頭のまま何も言うことができなかった。 「あの男、絶対また来るぞ。あそこで暮らしてたら、今度こそ危ない。必要な荷物とかは、明日以降一緒に取りに行こう。それまでは、コンシェルジュに言えば、大抵のものは用意してくれるから大丈夫だ」 何も問題はない。 そう言って契約書にサインを促すように、万年筆を渡してくると、高斗はソファに腰かけた。 千早がペンを持ったまま考え込んでいても高斗は何も言わず、ノートパソコンを開いて仕事の続きをしている。本当に、サインするまで部屋から出さないつもりのようだ。 (まさか、今日も徹夜なのか?) くっきりと浮かんだ隈を見ると、彼の貴重な睡眠時間を奪っていることに罪悪感を覚えた。サインする以外に選択肢がないのならもうしてしまおうかと思ったが、金額を見ると手が止まる。 「何か、その契約書おかしいか? 前の家政婦と同じ契約書使ってるんだけど」 「……やはり、この金額はおかしいです」 千早は部屋を見渡して言った。確かに広いし、全ての部屋を掃除するのは大変だ。ガーデニングの知識もないからそこは苦戦するだろう。 だが、そこまで散らかっている訳でも荒れてる訳でもない。 「綾鳥さんはここにほとんど帰らないんですよね? 他の住み込み家政婦さんは、掃除の他にも三食家族分用意したり、洗濯したりあれこれ頼み事をされて各段に忙しい。お子さんがいたらどうしても散らかりますし。でも、綾鳥さんが帰ってこないのなら、僕はここで一人暮らすだけじゃないですか。それでこの給料をもらうのは不相応です」 「なるほど」 分かってくれたかと安堵の息を吐くと、彼は笑って言った。 「もうすぐ、国会期間が終わるんだ。そうしたら、出来るだけ毎日帰ってくるようにする。正直、帰るのを面倒がってたところもあったけど、文月さんの飯美味かったし、ちゃんと帰るよ」 「……そういうことじゃないんですよ。大体、それじゃ一緒に暮らすことになるじゃないですか。僕がどういう人間だかわかってるんですか。〝発情期〟になったら誘惑しますよ。正直、あなたのこと結構タイプですし」 ヒートを発情期と葵に言われるのがいつも嫌だった。 それでも、わざとその言葉を使った渾身の脅しのつもりだったが、高斗は目を丸くした後、苦笑気味に言った。 「初めに言った通り、俺はドが付くほどストレートだから、好きなだけ誘惑してくれて構わない。絶対に不健全な関係にならないことを約束する」 「Ωのヒートがどんなものか知らないくせに……」 「残念ながら、確かに体験したことないから知らないな。じゃあ念のため、その期間だけは別々に暮らすようにしよう。俺はその期間ホテルで暮らす」 「なんで家主のあなたがホテル暮らしになるんですか」 「たまに泊まると、結構楽しいんだよな。バイキングとかホテルによって凝ってるし」 「………」 他に問題があるなら徹底的に話し合おうと言われ、千早は押し黙った。このままでは全て論破されてしまう。 「大体、知らない人に家に入られるのが嫌なのに、僕にお願いするって変じゃないですか」 「文月さんは知り合いだろ」 「……話すようになってまだ2日ぐらいですよね。僕みたいな身元の怪しい貧乏人を家に上げていいんですか。何か盗るかもしれませんよ」 挑発的に笑って言うが、高斗はそれについても、平然と答えた。 「物盗る奴だったら1000万渡したとき、すぐに受け取ると思う」 「それは……」 「文月さん、さっき言ってただろ。変なプライドがあって、今まで体は売れなかったって。そういうプライド持ち続けるのって、大変だと思う。こういう世界ずっと見てるとさ、金とか権力を前にすると、人は簡単にプライドなんて捨てるんだなって思うし……俺も含めてな。親父に引き取られる前すごい貧乏で、ひどい暮らししてたから、それがどれだけ大変なことか分かるんだ」 「…………」 プライドとか、そんな大したものじゃない。 金を受け取らなかったのは、贖罪だ。 人の幸せを壊した人間だから、そういう降って湧いたような幸運は受け取れない。 ──僕がどんな人間か何も知らないくせに。 そう思うのに、これまで歩んできたろくでもない人生が、ほんの少しだけ報われたような気がした。 「他に心配ごとは?」 「……いいえ、もういいです」 これ以上問答を続けても、悪戯に彼の睡眠時間を奪うだけだ。 「サインします。どっちの書類にも」 高斗は隈の浮かぶ目で重く瞬きを繰り返した後、「えっ」と声を上げた。 「どっちもって…え!?」 「ここまでして貰って、あなたの依頼だけ聞かない訳にはいきませんし」 「俺とつがいになってくれるのか!?」 思い切り手を掴まれて、千早は頬を赤くした。偽装の、たかが紙切れ一枚のことなのに、大げさだ。 「その代わり、後で後悔しても知りませんよ」 「するわけないだろ? 俺が言い出したことなんだから。本当に助かった……ありがとう」 気が変わらないうちに早くとボールペンを渡され、千早は初めてまじまじとつがい届を覗き込んだ。 「……つがい届って、意外と、シンプルなんですね」 「ああ。婚姻届よりずっと楽だぞ。戸籍謄本もいらないしな。だから、お互いもし他に良い相手が見つかったらすぐに解消届を出そう。遠慮なく言ってくれ。即日で解消できるし、戸籍に傷もつかないし、何も残らない」 何も残らない。その言葉にちくりと胸が痛んだ。 きっと、葵が知ったら激怒するだろう。 3カ月、安全な場所で全ての不安から解放されて、つがいと一緒に暮らすなんて。 それでももう、それしか選択肢がない。 この降って湧いた幸運を辞退する選択が許されない。 高斗が全て、誘拐と脅迫という形で断ち切って選ばせてくれたのだ。 「……綾鳥さんて、いい人ですね」 「は?」 思わずしみじみそう呟くと、高斗は心底驚いたという顔をした。 「……あなたみたいな人が、僕に関わったせいで不幸にならないかだけが心配です」 「いい人? 俺が? 誘拐してるのに?」 「誘拐じゃなくて、実質保護じゃないですか」 これのどこが誘拐なのか。 今までこんなに、誰かから気にかけて貰ったことはない。あの部屋に戻って千早がひどい目に遭う事を、彼は心底心配してくれている。 それを話すと、高斗は呆気にとられたように笑った。 「俺は文月さんが心配だよ。誘拐じゃなくて保護だったにしても、俺がやりたいからやってるだけで、文月さんの意思を完全に無視してる。全部エゴだ。そしてそのエゴを通すだけの金と立場がある。文月さんの方こそ、関わっちゃいけない厄介な奴に関わってんだよ」 「………」 その目に茶化したような冗談の色はなく、少し怖いぐらい真剣だった。 「約束する。絶対に、文月さんと関わったことを後悔しない。俺と関わったことを後悔させないって約束は出来ないけど」 「……なんですかそれ」 千早は苦笑しながらも、心の中は高斗の言葉によって満たされていた。 (ごめん葵、ごめんなさい……。3カ月だけ。3カ月したら、僕はこのマンションを出て、綾鳥さんとは、書類でつながっただけの、他人になるから。そこには何も残らないから……) こんな幸せを受け取るのは、これで最初で最後だ。 心の中でそう誓って、千早は二つの契約書にサインをした。

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